Hello World!

Welcome! 2011年3月16日に、ブログ(MSNスペース、後のWindows LIVE)が閉鎖されるということで、こちらに引っ越ししてきました。海外から20年ぶりに帰国した2005年から約1,000日間+の記録です。大好きな映画のトピックなら話も尽きないだろうと思い、会話のキッカケにでもなればと始めました。映画が縦糸ならば、写真は横糸。趣味の写真を使った写真アルバムも多数投稿していたのですが、そちらの方は移行できず残念。私にとって写真は自分の分身であり、その時の感性で光の温度をキャッチしながら空間を切る。カメラ片手に日本再発見は本当に楽しかった。新たな発見をしながら、時には日本語や慣習に悪戦苦闘しながら、日本の生活に溶け込んでいった自分自身の記録。記事はそのままにしておきますね。どうぞごゆるりと。

風薫る季節に

 

いつもの通勤の途上に、ジャスミンの馨りが流れる。生垣の向こうの家屋に、屋根まで届くようにジャスミンが絡んでいる。普段は気付かないのに、清楚な白い花が、古い家屋の深い色合いの壁や屋根とコントラストをなし、5月の風を甘く誘いながら存在感をアピールしている。

冬至の後、二十四節気の「小寒」の梅から、春の終わりを告げる 「穀雨」まで、それぞれの時節に咲く花を知らせる風のことを二十四番花信風と言うそうだ。花と鼻で知る季節のうつろい。梅の香りは東洋独特なもので、西洋から来ている人に教えてあげると、ささやかな発見を喜んでくれる。仕事仲間のエリンは、梅の花の咲き具合や、朝、夕、と時間帯によって、香りが変わるのが面白いと話してくれた。沈丁花の香りには独特な存在感がある。鮮やかなツツジは甘く透明で、雨の中に佇むクチナシの甘美な香りが、湿気を含んだ空気に漂う。柑橘系の花の匂いは爽やかで新緑に映える。そんな5月の花の馨りのシンフォニーが街に響く頃には、自然と足取りが軽くなる。

ふと「潜水服は蝶の夢を見る」(2007年)という映画を思い出した。43歳のファッション誌編集長(フランス)が、脳梗塞からロックト・インシンドロームのため身体の自由を奪われてしまい、唯一動く左目を使って瞬きだけで自伝を綴ったという実話を基にした作品だ。本人ジャン=ドミニック・ボービーが登場するドキュメンタリー「潜水服と蝶-20万回の瞬きで綴られた真実ストーリー」(1997年、原題 Assigné à résidence、監督J=J・ベネックス)も素晴らしかった。JJの「ディーバ」(1981年)や「ベティ・ブルー」(1986年)の感性が、生き生きと原作を蘇らせてくれたからだ。

しかしながら、映画にもドキュメンタリーにも取り上げられなかったが、原作の中に強く印象に残った描写があった。海辺でフライドポテトの屋台の風下に車椅子を移動してもらい、胸一杯にポテトの匂いを満喫したというものだった。本人は申し訳なさそうに、高尚な匂いでないことを謝っていたが、私たちが夕飯時にどこからとなく漂うカレーライスの匂いに、幸せと安堵を感じるようなものだろうかと想像した。幸せとは、そんなささやかなものなのかもしれない。食事する楽しみを奪われていたから、胸一杯のポテトの匂いは、懐かしくて、一層美味だったに違いない。……アメリカではフライドポテトのことをフレンチフライと呼ぶが、フランスに行ってポテトがフレンチな理由を実感した。まだ寒さが残る早春のパリ、ルーブル美術館で食べた大きなカットのフレンチフライことアツアツのフリット(Frite)は最高だった。  

※一番下の写真の中央は、アメリカ南部の朝食で定番のグリッツ(ひき割りトウモロコシ)でできたブローチ。ハナミズキ(dogwood)の花をかたどっている。桜のお礼に、アメリカから日本へ贈られたハナミズキ。今では街路樹として街に彩りを添えている。アメリカ南部でよく見かける春の花。日本では桜の後に咲く。秋の紅葉も美しい。

Global Education Opportunities LOST and Services FAILED, So It Seems

この一週間ほど、破産したジオスで英語を教えていた外国人の先生たちが相次いで相談に現れた。2年半前(2007年10月)に破綻した英会話学校NOVAの時を思い出した。「またか」 (it’s happening all over again!) と思ったが、早い段階で再雇用や転職、帰国が決まった人もいて、当地では何とか混乱が収まりつつある。

もしかすると、誰かの役に立つかもしれないので、以下に、問い合わせのあった内容について簡単にまとめておこう。

(※必ず最新情報を確認してください。)

1 外国人の脱退一時金申請について

まずは、国民年金もしくは厚生年金を(6か月以上)納めていたこと等、前提や条件があるので注意。該当する脱退一時金を、市町村の窓口(国民年金)もしくは社会保険事務局(厚生年金)に申請する。最終的には、出国したことを証明するパスポートのページの写しを添えて、脱退一時金裁定請求書を、帰国後送付する。

2 納税管理人の届出書について

脱退一時金に課される20%の所得税(源泉徴収)の還付を受けるために、納税管理人(日本の居住者)を指定し、最寄りの税務署に「納税管理人の届出書」(外国人用)を提出する【1994年11月9日改正厚生年金保険法による】。なお、相互協定により「年金加入期間の通算」、つまり、将来、年金として受け取ることが可能な国(ドイツ、アメリカ等)もある。該当する場合、「脱退一時金」か「年金加入期間の通算」にするか決めて、それぞれの手続きをする。

3 未払賃金の支払いについて

独立法人 労働者健康福祉機構に、「未払賃金の立替払事業」ついて問い合せたところ、相談コーナーの担当者から丁寧な説明があった。様式や記入方法も掲載されている。 英語版のパンフレットもあるので、説明の際に大いに役に立った。

http://www.rofuku.go.jp/kinrosyashien/miharai.html

様式

http://www.rofuku.go.jp/kinrosyashien/miharai2.html

パンフレットへのリンク

http://www.rofuku.go.jp/kinrosyashien/miharai3.html

英語版パンフレットへのリンク

http://www.rofuku.go.jp/kinrosyashien/pdf/tatekae_seido_english.pdf

4 雇用保険の失業給付手続きについて

ハローワークに問い合せたところ、雇用保険に入っていることが給付の前提になり、いくつか条件があるが、申請には、離職票と印鑑(外国人の場合は署名可)、銀行カード(口座に振り込まれるので)が必要。この場合,会社の都合(破産)なので、申請が受理されたら、通常、申請後1か月位で支給されるであろうとのことだった。 以下のリンクは、愛知県のものだが、英語の説明が役に立つ。

http://www.aichi-rodo.go.jp/gaikokujin/en/pdf/InOrdertoReceiveUnemploymentBenefits-en.pdf

5 その他

帰国の際には、国民健康保険に加入している場合は、在住している市町村の窓口に返却して解約し、保険料を清算する。その際、帰国日の確認のため、飛行機のチケット等のコピーが必要。空港もしくは港で出国手続きの際に、外国人登録証を返却する。

以上、ご参考まで。

こんなことが起きて本当に残念だが、「それでも日本のことは好きだ」、「皆に親切にしてもらった」、「また日本に遊びに来たい」と話してくれたのが、せめてもの救いだ。いや、彼ら彼女らの思いやり、前向きな姿勢、相手を気遣う心こそ、今回の目に見えない報酬であり成長の証だと感じた。

それでは、全てうまくいきますように!!!Good Luck!

 

※株式会社ジオス(英称:GEOS Corporation)は、外国語学校を経営していた企業。GEOSは、Global Education Opportunities and Servicesの略とされている。本社は東京都品川区大崎に所在。 2010年4月20日、東京地方裁判所に破産手続き開始の申し立てをし、経営破綻した。【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】

時は流れ景色は変われど

昨日、無事、亡父の四十九日の法要を終えることができました。桜が咲き、春の色が街を染め、ふと立ち止まると窓の景色が温かく心を癒してくれる。そんな季節を、まるで残してくれたかのようでした。このところ、雨の日が多かったのですが、昨日はよいお天気に恵まれました。  

父の寝たきりになってからの闘病生活は約1年半におよび、何度も危機を乗り越えたのですが、2月20日の早朝、呼吸が止まったと病院から連絡を受けました。心臓も止まっていたそうですが、駆けつけた時には蘇生が成功していました。「ずっと低空飛行を続けていたが、今回は、水面すれすれのところにいる」と主治医から聞いたのを覚えています。

 
残念ながら、意識が戻ることはありませんでしたが、不思議なことに父の表情がどんどん柔らかくなっていきました。「おだやかな顔になってきたね」と先生もおっしゃってくれました。家族にとっての慰めでした。主治医、看護師さん、そして、病院のスタッフの皆さんには、どんな時も変わることなく親切にしていただき、本当にお世話になりました。そして、大雪の降った翌日、3月10日の朝、父は雪が消えていくように静かに息を引き取りました。 

そのようなわけで、長い間、ブログも更新できず、随分ご無沙汰してしまいました。加えて、年度末・年度始めの混雑にまぎれて、何かと疎遠になってごめんなさい。映画や旅行の話、そして写真を楽しみにしていると連絡をくださった方、そっと見守っていてくださった方、本当にありがとう。また、ぼちぼち始めたいと思いますので、よろしくお願いいたします!!!

第67回写真展 Les Blogueurs de France au Shikoku, Japon

I had a wonderful opportunity to meet bloggers from France the other day. I was told that 5 bloggers were selected at the Japan Expo 2009 Paris in July this year to discover the beauty and charm of Shikoku.  They were invited to Japan from October 10 to 22. Their mission is to share and blog about their experiences in Shikoku.

 

Mr. Yamaji greeted us at the Kokubunji Bonsai Center. He talked about the art of Bonsai in English and French. As you can see, he was not only knowledgeable but also hilarious.  A little smile goes a long way!

The reason why they were dressed in white is to participate in a part of the Shikoku Pilgrimage of 88 temples on the island of Shikoku. It takes about 30 to 60 days to complete the entire journey of 1,200 km or 744 miles on foot. So, we covered 3 temples that day in and around Takamatsu; No. 80 Kokubunji, No. 81 Shiromineji, and No. 82 Negoroji.

First, we stopped by the Iida-cho Omotenashi Station, where Mr. & Mrs. Kono were gracious hosts to show generous hospitality to us. She treated us homemade Umeboshi, pickled plums, and tea as we learned about this spiritual journey.

Now let me introduce Ms. Delphine MACH, who is a very talented illustrator.  She allowed me to see her sketch book, and I could immediately visualize her entire trip.  You can, too, by taking a look at her amazing blog and you will see stories of Aki, her alter ego.

Ms. Salomé HOLZER is a student, who loves "cuisine" and Manga!  Please visit her cute "Kawaii" blog.

 

Ms. Sophie LE BERRE is interested in plants and gardens.  Indeed, she is very knowledgeable.  She speaks very fluent Japanese and understands Japanese culture as she spent 2 years and a half in Takamatsu in the past.  Somehow she and her family are undoubtedly connected to Japan, since her grandfather worked on architectural projects long ago in Japan, and her parents also visited Japan just before Tokyo Olympics in 1964.  Please see her lovely blog.

  

Mr. Franck FLEURY is a great professional photographer.  He is experienced and very versatile.  I had a delightful conversation with him about his philosophy on photography.  He takes photos like he breathes air.  It became second nature to him.  He follows his heart when he sees the world through the camera.  In fact, it was a treat to shoot pictures side-by-side with him.  Please enjoy his photos!

  

Although the fifth blogger, Mr.  Florent PORTA, was not able to come along that day, you can see his blog here.  Instead, Mr. Stephane Michaud accompanied us.  He speaks good Japanese and has a keen understanding of our culture.

 

This project is called Shikoku Muchujin in Paris lead by Ms. Ozaki.  Find out more here.

  

Fall foliage season has just begun!

  

 

Merci, tout le monde.  I had a great time.  Have a safe journey wherever you go.  …Bon voyage!

第66回写真展 朝焼けの街

先月の韓国出張は、タイトスケジュールだったが、出発の朝、ホテル周辺を散歩したので、その時の写真をアップしておこう。まずは、チャイナタウンの一角にある旧日本人の居留区から。ちょうど朝焼けの時間だ。うっすら明けていく空をバックに遠くの高層ビル群が茜色に染まる。坂道に人影が浮かんだ。

仁川は横浜や神戸のように港町で小高い丘もあり、旧日本人の居留区のお隣は韓国一を誇るチャイナタウンだ。ジャージャー麺発祥の地だそうで、韓国式の中華料理を味わった。前日聞いていた「自由公園」を散策することにした。韓国で一番古い洋式の近代公園だそうだ。突然、大音響で、韓国版ラジオ体操のようなものが始まった(5:45頃)。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その音に導かれ、坂道を上がっていくと、引き続きディスコやヒップホップを交えたダンスを織り交ぜた有酸素運動(エアロビ)を老若男女が楽しんでいる。他の運動具も整っていた。 

  

自由公園には、朝鮮戦争時に仁川上陸作戦(1950年9月15日)を指揮したマッカーサーの功績を称える銅像があるが、周りにローズガーデンがあり、よく手入れされていた。

 

今回の訪韓で気が付いたのだが、以前より、ずっと自由でオープンな印象を受けた。韓流大好きの母に、「死ぬまでに一度連れて行って」と、何度もせがまれたのがキッカケで、親孝行ツアーを決行したのは約2年前。今度はアジアとの繋がりを大切にしたいと思っていたので、私にとっても絶好のチャンスだった。その後、父が寝たきりになり介護が必要なので中断しているが、今のところ、ソウルを起点にした旅と釜山を起点にした親孝行の旅を2回ほど実行している。

最初の旅は、写真撮影に制限があった。DMZ(非武装中立地帯、1950年に勃発した朝鮮戦争が1953年の休戦協定により発効した軍事境界線で南北各2km、東西に走る計4kmの幅の休戦ライン)や平和展望台を見学した時には、もちろんだが、平和学習で訪れていた韓国の小学生グループの子どもたちが、持参していた携帯で北の方向に向けて写真を撮っていると、随行していた職員から注意されていた。平和な時代に生まれた子どもたちにとっては、北も南もない。大人の私にだって区別がつかない。木々の生えていない裸山が連なっていた。かつては激しい戦火を交えた地だ。

今では米の産地とのことだが、美しい水田が広がる(農耕は昼間のみ特別に許可されている)のどかな景色とは対照的だった。北緯38度線から30キロほど北に位置する鉄原(チョルウォン)から、特別な許可を得たコンボイ(護送車と共に要所を巡るバスや車の集団)で、鉄原から北へ約13キロ、第二トンネルに向かった。今では自然が戻り、刈り入れの終わった田んぼに雪が積もり、白銀の世界が続く。そこへ、見事な鶴が舞い降りるのだ。思わず息をのんだ。晴天の光り輝く純白の世界に、人知れず渡り鳥が飛来する。車を止めて写真を撮りたかったが、コンボイを止めるわけにもいかず、また、地雷が残っているので危険と説明を受けた。こういったところにも戦争の爪痕が残っているのだと、衝撃を受けた。

また、江華島や沿岸には軍が駐屯していて、鉄条網のある場所は基本的にカメラを向けることはできなかった。それに対して、釜山から、安東(アンドン)や慶州(キョンジュ)に行った時は、写真撮影の制限がなく、その平常さに安堵したのを覚えている。しかしながら、今回の出張で、沿岸を視察した時にも、全くピリピリした気配がなく、撮影制限も一切なかった。現地のエキスパートが同行しているせいかと思ったが、時代の流れと全体的な傾向のようだ。たった2年弱でこれほど変わるとは思いもよらず、平和であることは、カメラ好きにとっても大いに喜ばしいことだと実感した。例えば、仁川沖合にある霊興島(ヨンフンド)。昨年まで軍が駐屯していたが、今年から市民に一般公開されているそうだ。

霊興島は、仁川上陸作戦(1950年9月15日に国連軍が仁川へ上陸してソウルを奪還した一連の作戦)で大きな役割を果たしており、仁川港へ進入する水路を示す八尾島(パルミド)灯台がある。9月15日午前0時に点灯して上陸部隊の第一陣を誘導した灯台は今では博物館になっているそうだ。仁川港は干満の差が非常に大きく(平均6.9m)、干潮時には港の周辺は約3.2kmの干潟となってしまう。つまり、船のナビが難しい。仁川空港にアプローチする時に気付いた方もいらっしゃることだろう。

 

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発して、北の侵攻により国連軍は後退を続け、7月31日には釜山周辺まで追いつめられていた。釜山に行った時、多くの人が逃げてきた時の話をしてくれたが、キムチ瓶や家宝を背負って戦火を逃れる人々で大混乱していた。戦況を打破すべく、マッカーサーが仁川上陸作戦を発案・指揮して、ソウル近郊の仁川に奇襲上陸して北の補給路を断ったのだ。また、釜山から第8軍を進めて南北から挟撃した作戦により、国連軍は仁川を確保して、ソウルを奪回することに成功した。仁川上陸作戦から8日後、9月23日には、北に38度線以北への後退を命令し、朝鮮戦争における大きな転換となった。そのようなわけで、仁川自由公園には、マッカーサーの功績を讃える銅像が設置されている。

また、園内には韓米修交100周年記念塔もあり、1992年に韓米修好通商条約締結の100周年を記念して建てられたそうだ。平和・自由・自然・人間を象徴する帆の形をした8つの塔から成る記念塔は、末永く続く両国の友愛を祈念している。公園は今では市民の憩いの場になっており、早朝から散歩する人の姿が後を絶たなかった。

さて、空が明るくなってきたので、駆け足で仁川の旧日本人居留区に戻ることにしよう。朝焼けの街を撮影した最初の写真の角(左)の家には、日本人が住んでいたそうだ。また、1883年に開設した旧日本第一国立銀行釜山支店の仁川出張所が保存されている。(仁川広域市有形文化財)

旧第18と第58銀行も残っている。

 

そして、仁川の区役所(中区)も歴史区の中にある。

6:30に朝食の約束をしていたためホテルに大急ぎで戻ったが、有意義な朝のお散歩だった。

  

第65回写真展 She’s Back in Town!

国際交流の仕事をしている関係で、来日する人の受け入れやお世話をさせていただいているが、時には、ホームシック、カルチャーショック、適応障害等、いろいろと頭の痛いこともある。しかしながら、「苦あれば楽あり」とはうまく言ったもので、若い人たちとの交流は楽しい。私自身、海外で長年お世話になっているのだから、いつも「少しでもお返しできれば」と思っている。

ジャッキーは、今までお世話してきた若者の中でも、特に優秀で可愛い人だった。もともと日本語が堪能で、日本文化に大いに関心を持っていたが、さらに理解を深めようと努力を怠ることはなかった。そんな彼女から多くのことを学んだ。そして、彼女が素晴らしいところは、自分から進んで人とかかわりを持とうという前向きな姿勢と信頼感だ。勝手の違う国で委縮せず、新しいことにチャレンジするのは、どれほど勇気のいることか、私自身よく理解しているつもりだが、ジャッキーは、誰かから声をかけてくれるのを待つのではなく、自分から人の輪に入り、どんどん人間関係を広げていった。日本にいる間、多彩な趣味を通して、多くの人間関係を築き、同時に、自分を見失うことはなかった。そんな彼女が約1年ぶりに、弟アレックス君を連れて帰ってきてくれたのだ。まるで、空気が明るくなったような気がした。

早速、歓迎会(お帰りなさい & Welcome パーティー)を開いたが、彼女の多彩な人脈に驚いた。洋裁や着物リフォームを習ったり、日本のお惣菜クラス、そして、日本語の勉強と、実に人間関係が面白い。アニメが大好きで、自分でコスプレの衣装も作ってしまうほど器用で多才だ。そして、女木島を訪れたことがないと聞いたので、小さな赤いフェリーに乗って瀬戸の島めぐりをすることにした。(※本人に写真の協力とブログ掲載の許可をいただいています。)

女木島のモアイ像の前にて一休み。

ちょうど、女木(めぎ)・男木(おぎ)、両島で映画「めおん」(※小さな赤いフェリーの名前)の撮影をしていたのだが、ロケ現場を見ることが出来て嬉しいと話してくれた。完成が楽しみだ。以前、仕事で彼女と男木島を訪れた時、時間がなくて見逃した灯台も訪れた。うっそうとした山道だが、2月頃には清楚な水仙の花が一面に咲くことを話した。いつの日か、水仙の頃に再会と再訪を願いつつ……。

そして、玉藻公園も散策した。ここは、彼女が来日して一番最初のTV番組を収録した思い出の場所だ。また、大広間で、アメリカからの大切な来賓をもてなした時には、彼女も通訳として大活躍してくれた。

歓迎会では、アメリカから真空パックに入れて持参してくれたクッキーを、皆で味わった。お父さんが中心になって、お土産にクッキーを焼いてくれたという感心な話に、驚き、感動した。ピーナッツバターやM&Mが入った大きなクッキーは、crunchy outside, moist inside(中はしっとり、外はサクサク)で、アメリカの味がした。こうして楽しい時は、あっという間に過ぎてしまった。

ジャッキーと再会できて本当によかった。これから大学院(医学部)に進学すると忙しくなるだろうが、沢山の人が応援しているよ!!!

チェロを弾く人たち

先日、通訳・案内で、地元交響楽団の定期演奏会に同行したが、新進気鋭のチェロ奏者ボリス・アンドリアーノフ氏(Boris Andrianov、ロシア出身)によるドヴォルジャークの「チェロ協奏曲ロ短調」を中心に、思いがけず素晴らしい演奏を聴くことができた。
 
アンコールはインタビュー(英語)も交え、大サービスで、ジョヴァンニ・ソッリマ(Giovanni Sollima)作の「ラメンタチオ」(Lamentatio)、そして、パブロ・カザルス(Pau Casals)作の「鳥の歌」(El Cant dels Ocells)と、全くタイプの違う曲だが、確かな技術に裏付けされたパッショネイトな演奏を披露してくれた。前者は現代音楽で、ヴィヴァルディのダイナミズムとロックのノリのある曲だ。後者は具象的な小品で、目の前に高らかに飛ぶ鳥が自由にさえずる様子が見えるようだった。深みのあるチェロの音色に魅せられたが、ロシア政府から貸与されている18世紀の名器ドメニコ・モンタニャーナ(Domenico Montagnana)だそうだ。迫力のある力強いチェロの音を楽しむことができた。
 
さて、チェロ奏者と言えば、映画「おくりびと」の主人公が記憶に新しいが、ジョー・ライト監督の「路上のソリスト」にもチェロを弾く人が登場する。LAタイムズ新聞のコラムがキッカケとなった実話をもとにした作品だ。ロペスの連載記事に心を動かされた人は多く、「路上のソリスト」との交流を通してホームレス、心の病、音楽の力、友情等についての考察が記されたものだ。
 
心の病をテーマにした映画は多い。卓越した音楽家という視点からは、デイヴィッド・ヘルフゴット(実在のピアニスト)の「シャイン」(1996年)や、統合失調症に苦しむ天才という視点からは、ジョン・ナッシュ(実在の数学者、ノーベル賞受賞)の「ビューティフル・マインド」(2001年)のアプローチと比較対照してみると面白いが、この路上のソリスト、ナサニエル・エアーズも実在の人間だ。ナサニエルが抱える問題は2時間弱の映画の中で解決できるものではない。ロペス記者が深入りしたくなかった気持ちや、ナサニエルを治したい(変えたい)と焦る気持ちはよくわかる。しかしながら、かかわることで変わったのは自分の方だとロペスは気付く。
 
ジョー・ライト監督は、「プライドと偏見」(2005)では、ジェーン・オースティンのエドワ―ディアンな世界をみずみずしく現代に息吹かせ、また、「つぐない」(2007)は、イアン・マキューアンの大戦前後のイギリス社会を、記憶を手繰り寄せるように描いていたが、ブライオニーのテーマ(音楽)が印象的だった。今回は現代のアメリカに舞台を移し、実在する人物を、音楽を通して描いている。
 
ナサニエルとロペスが、オーケストラのリハーサルを見学するシーンがあるが、共感覚(synesthesia)のようなものが描かれている。初めて、synesthesiaという言葉を目にしたのは、定期購読していた雑誌Smithsonian(2001年2月号、「スミソニアン」)だった。共感覚とは、ある刺激に対する感覚が通常ものだけではなく、もう一つの感覚を伴う特殊な知覚現象で、一部の人のみに起こる。例えば、音に色を感じたり、文字に色を感じたり、形に味を感じたりするという。音に色を見る共感覚は、こんな感じだろうかと思った。しかし、このシーンで一番パワフルなのは、ナサニエルを演じるジェイミー・フォックスの表情だ。「Ray/レイ」(2004)では、ピアノを見事にこなして、さすがは音大出身だけあると思ったが、「路上のソリスト」でも音楽への愛情を見事に体現している。そして、ロペスは「ナサニエルが本当に必要なのは友情なのだ」と気付いていくのであった。

旅立ち

先日、悲しい報せが届いた。学生時代の後輩が闘病生活を続けていることは聞いていたが、彼女の早過ぎた旅立ちに驚き戸惑い悲しく、本当に残念に思う。また、何年も会っていない人に、突然メールや電話で訃報を伝えるのは思った以上に辛く、お互いにショックと動揺が隠せなかった。しかしながら、多くの人を通して、断片的に伝わってきた彼女の生き方に目頭が熱くなった。「私たちの知らないところで一生懸命生きていた」彼女は、社会的に意義のある活動を献身的にこなしていたのだ。よりよい社会を目指して。こんな時だからこそ、彼女のために気をしっかり持とうと思った。そんな気持ちが届いたのか、いや、その気持ちは共通だったようで、猛烈なスピードでML(メーリングリスト)やコミュニティが立ち上がった。彼女が再び結んでくれた絆を大切にしたい。皆で心を合わせ彼女を温かく送ろう。

…precious are all things that come from friends. ‐Theocritus

Thank you, my friends!

第64回写真展 幻のプルドゥン(韓国 伊作島)

国際会議に出席するため、韓国に出張してきました。今ホットな「持続可能な都市開発」というテーマで、海外からの代表団、そして、全国(韓国)から集まった人々と交流できて有意義な会だった。今回特に印象に残ったのは、視察で訪れた海に浮かぶ幻のプルドゥンだ。

プルドゥンは固有名詞ではなく一般名詞のようで、潮の干満によってできる砂州(砂丘)のことだそうだ。1日に2~3時間しか見ることができないそうで、仁川から特別にチャーター船を出していただき、約2時間で大伊作島の南に姿を現したプルドゥンに上陸。まさか海の底を歩くとは思わなかった。全長約4キロと韓国でも有数のものだそうだ。最近、韓国のTVで紹介されて、韓国内でも注目されているとのこと。

帰国後、プルドゥンのことを何人かの人に話したところ、このような現象は「全羅道にある珍島(チンド)の海割れが有名ですが、確か時期は2月か3月だったはず」と教えてもらった。実は、出張する前に、もしかして天童よしみの「珍島物語」の舞台ではないかと調べてみたが違っていた。それでも、全羅道(チョルラド)が全く無縁というわけではない。千の島があるという新安(シナン)から来た海洋学者たちと共にプルドゥンを見学することができたからだ。木浦とか地図の上だけでしか知らなかった全羅道の地名が身近なものとなった。その夜、同じく全羅道の光州から来ていた代表団の人々と大いに盛り上がった。

それから、「珍島物語」だけではなく、「ひょっとして『シルミド』(実尾島)と関連あるかも」と出張前に、こっそり映画をチェックしたが、伊作島の方はもっと沖合だった。出張の予習が映画鑑賞と笑えるが、「シルミド」を観ていたおかげで、「いい映画だったね」と、会話が弾んだ。仁川のあたりは干満の差が大きく、干潮の時は島が陸続きになったりすることもあるそうだ。仁川空港のあたりは干潟が続く。

プルドゥンが海に姿を消す前に、大伊作島へ移動して、村長さんの民泊(ペンション)の中庭で、昼食をいただいた。済州島から来ていた代表団の方が、地引網に引っかかった魚を刺身にしてくれて、コチュジャンで食べたが美味しかった。「ワサビと両方つけて食べなさい」と言われたが、まずはコチュジャンで賞味することにした。このことも、帰国後、何人かの人に話したのだが、韓国ではコチュジャンで食べるのがディフォルトだそうだ。また、コチュジャンをお酢でのばして使うと聞いたが、そう言われれば、ゆるい液体状で食べやすかった。釜山あたりでは白身魚にワサビの組み合わせもポピュラーだそうで、「両方つけなさい」が何となく理解できた。刺身は、韓国語で膾(フェ)と言うそうだ。(情報ありがとう!)

島でとれた野菜と海の幸を盛り込んだ味噌汁も大釜で作ってくれたのだが、今まで韓国で食べた味噌汁の中で一番美味しかったと思う。帰国後、この体験を「素朴だが上品な白味噌仕立て」と話すと、「あちらで『白味噌』は見たことがありません。大豆から作ったテンジャンという日本でいう田舎味噌ならとてもポピュラーですけど……」と、クレームが付いた。実は、自分でも不確かだったのだが、どう表現したらよいのか苦心したあげく思い付いた言葉だった。味噌の発酵がどんどん進んで味が濃くなる前の若い味噌のことを言いたかったのだ。

四国山脈で手作りしている田舎味噌を定期購買しているが、いつも「白味噌」と書いているのに、白味噌に見えたことはない。そして、熟成度によって色が濃くなるし、夏、冷蔵庫に入れていないと、あっという間に、テンジャンのように濃厚な味になる。しかしながら、今回、初めて韓国で若い味噌を口にして、四国山脈の田舎味噌と接点を見つけたのだ。「ああ、これだ!」と思った。四国山脈の味噌もテンジャンと同じく大豆ベースだ。また、貝のエキスと白味噌が絶妙にマッチしているので、勝手に書いてしまったが、そのおかげで、いろいろ教えてもらえたし発見があった。大釜の味噌汁は自家製の田舎味噌を使ったのに間違いないだろう。

そこで、白味噌とは何だろうかと考える。少し調べてみると、主な違いは熟成期間とあった。赤味噌は1年以上熟成させたものだそうだ。長期保存のため塩分の濃度が高く、コクが出て色が濃くなる。白味噌は熟成期間が数か月で麹の糖分の甘さが特徴だそうだ。さらに、JASによる日本のみその分類は、米みそ(大豆と米を発酵・熟成させたもの)、麦みそ(大豆と大麦又ははだか麦を発酵・熟成させたもの)、豆みそ(大豆を発酵・熟成させたもの)、調合みそ(各みそを混合したもの、もしくは、その他のみそ)だそうだ。本当にいい勉強になった。

それから、この大釜の味噌汁の中に、ズッキーニが入っていたが、意外とズッキーニが味噌に合うことも発見した。

昼食を終えた後、もう一度プルドゥンを見に行ったが、既に海に姿を消してしまっていた。まるで幻のようだった。